「太田よいとこ歩くかい」 (太田市) 案内場所 歴史の小径(こみち)エリア

館林駅から9時45分スタート



館林駅



駅の開設は明治40年。当初は蒸気機関車でしたが、複線化された昭和2年には電気機関車となり、交通運送の面で館林の近代化の一端を担ってきました。駅舎は昭和12年の増改築を経て、平成21年、橋上駅舎及び東西連絡通路が完成し、現在に至っています。旧駅舎は、平成10年に関東の駅百選にも選ばれました

竜の井



城沼に棲む竜神の妻が、かつてここにあった善導寺を守るため、この井戸に姿を消したという伝説から「竜の井」と名付けられたと言われています。以前この一帯は善導寺の境内でしたが、昭和61年館林駅前広場の整備に伴って、楠町に移転したため、現在は本堂前にあったこの井戸と二本のイチョウだけが残っています。

毛塚記念館



毛塚家は江戸時代末期、丸木屋(まるきや)という屋号で造り酒屋を営んでいました。昭和29年に分福酒造と改称しています(現在、工場は野辺町)。館林旧城下町に残る本格的な町屋の建物で、平成10年に国の登録有形文化財に指定されました。かつては敷地内にある井戸から取水し、お酒を作っていました。

青海天満宮



平安時代、菅原道真は時の左大臣藤原時平の陰謀によって大宰府に左遷させられてしまいましたが、その際「東風吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠い、4つの梅の実を枝に刺し投げたところ日本各地に散らばり根付いたそうです。その4箇所とは花久里梅(島根県)、飛梅(福岡県)、四季梅(香川県)、青梅(群馬県)で、それぞれに天満宮の分霊を勧請し菅原道真を祀っています

外池商店



屋号は和泉屋(いずみや)といい、江戸時代中期、近江の国(滋賀県)から移り住み、造り酒屋を営んでいましたが、明治33年には、味噌、醤油の製造業を行っていました。現在の建物は、昭和4年に建てられたもので、毛塚記念館と同様町屋の特徴を備えています。敷地内にある蔵は、百々歳蔵(ももせぐら)と名付けられ、以前はコンサートなど文化活動を行うことができるホールとしても利用されていました。
  

旧二業見番組合事務所



二業とは芸者さんの置屋と料亭のことで、見番はそれらの取次ぎや料金の精算、取り締まりをしたところです。1階は事務所、2階は芸者さんの稽古場であった舞台付き36畳の大広間があります。現存する見番建築は、全国的にも数少なく、非常に文化的価値が高い建物です。平成28年に国の登録有形文化財に指定されました。

青龍の井戸



江戸時代、この周辺には福寿院というお寺があり、その境内に井戸がありました。伝説では、館林城主であった徳川綱吉公の時代に、突然、清水が噴き上がり、中から女官姿の青龍権現が姿を現したことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになりました。また、この井戸と「竜の井」「城沼」とが一つに繋がっていたという伝説があります。

金山神社



寛永年間(1624年 - 1644年)に創建された。鍛冶職人の神社として創建された。現在は祠レベルに縮小しているが、かつてはそれなりの広さがあり、1780年(安永9年)に本殿・拝殿と瑞垣を整備した[1]。1910年(明治43年)の神社合祀により、当社は近代社格制度に基づく「郷社」に列せられた長良神社に合祀されてしまったが、地元住民により、復祀するようになった

鷹匠町長屋門



野辺町(旧三野谷村)の豪農が利用していた長屋門の木材を利用して、平成21年に造られました。門の両側の部屋は、使用人の部屋や物置、長屋として使われていました。

鷹匠町武家屋敷「武鷹館」



江戸時代、この周辺は鷹狩用の鷹を飼育する鷹匠が住む鷹匠町と呼ばれていました。当時の鷹匠町の武家屋敷街の雰囲気や景観を創出した敷地の愛称として「武鷹館」と名付けられました(一般公募)。この「武鷹館」には、旧館林藩士住宅、長屋門、付属住宅が整備されており、特に旧館林藩士住宅は県内に残る数少ない武士の住宅の1つで、平成11年に館林市指定重要文化財となっています。



武鷹館n説明も終わり丁度昼食の時間になり


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